藤波辰爾 猪木さんとの伝説のフルタイムドローIWGP戦語る「猪木さんの意地感じた」

山本 鋼平 山本 鋼平
トークショーを行った藤波辰爾=都内
トークショーを行った藤波辰爾=都内

 プロレスラーの藤波辰爾(69)が2日、都内で開かれた「アントニオ猪木写真集 1960~1988」(ワニブックス刊)の発売記念トークショーを行った。元ゴング編集長の小佐野景浩氏とともに、昨年10月に死去したアントニオ猪木さんの思い出を語った。

 藤波がレスラー代表、小佐野氏がメディア代表、この日は所要で欠席したミュージシャンのファンキー加藤がファン代表として、監修の3人で東京スポーツ社が保有する秘蔵写真から厳選。1960年のデビューから、政界への挑戦を前にした1988年まで、リング上の模様による「闘魂」、戦いから離れた姿の「夢」、2冊組写真集に収められた。

 「闘魂」のラストショットは、1988年に猪木さんが藤波に挑戦したIWGP戦。フルタイムドロー後、両者がセコンドに肩車されているもの。感極まった表情の猪木さん。藤波は「当時の猪木さんが45歳。プライドの高い猪木さんが付き人をやっていた僕に、挑戦すると言った覚悟を、そのまま持ってリングに上がってきた」と回想。小佐野氏は「挑戦者決定リーグ戦で、猪木さんが最後ベイダーに勝って、さあ藤波勝負だ、という流れでしたもんね」と付け加えた。

 60分ドローの王座戦を藤波は「改めて猪木さんのすごさを感じた。最後、ゴングを聞くんだけど、それから僕をひっくり返して上に乗ってきた。猪木さんのプライド、意地でしょうね」と語った。小佐野氏は「猪木超えを期待する声、猪木頑張れという声もある難しい状況。猪木が負けたら引退では、という声もあった。藤波さんも複雑だったのでは」と述懐した。

 藤波は「選手は師匠を超えたい、猪木さん、馬場さんからフォールを取りたいという夢はある。僕にも野心はあったが、試合が進む中で不思議な空間で、終わってほしくない、ずっとこのまま居たい、という感じだった」と振り返った。両者ともに動きが落ちない中で迎えたドローを告げるゴング。「8月でクーラーもない横浜文化体育館は暑くて、テレビのライトでキャンバスは熱かった。試合前に食事制限とか、目いっぱい体を調整したけれど、試合が終わって2日間、おしっこが出なかったから。完璧な脱水症状だったけど、猪木さんに失礼があってはいけないと、倒れることはなかったね」と続けた。

 1989年に猪木さんは政界に進出。小佐野氏は「猪木さんの最後のIWGP戦。この試合があったから、自分で区切りをつけた気はしますね」と語った。藤波は「僕は越中に肩車されていて、長州が猪木さんを肩車するけれど、絵作りじゃなくて自然にそうなったなあ」と、両雄の写真を見て、しみじみと振り返った。

 他には、新日本プロレスの道場開きの写真を見ながら「レフェリーを含めて6人だけだけど。猪木さんが笑顔で自分の城ができたという感じだったね」と目を細めた。小佐野氏は日本プロレス追放から1カ月で道場を完成させた当時のスピード感を指摘。藤波も道場新設を手伝い「猪木さんの邸宅の庭が、日本プロレスを追われた翌々日に行ったら、ものすごい立派な庭が更地になっていた。あの立派な鯉、植木、石垣はどこにいったのかな」と語った。続いて太田区体育館の旗揚げ戦の写真に、藤波は「あの頃は(当時の猪木さん夫人)倍賞美津子さんが宣伝カーのウグイス嬢やってましたもんね。すごい豪華ですよね」と懐かしそうに語った。

 猪木さんが亡くなって半年。藤波は「猪木さんを振り返ることが多いけれど、常にそばにいるような感覚。この感覚はたとえ5年たっても変わらないのかな。もう現実にはいないんですけど、過去じゃない。薄れていく感覚がないんですよね。リングに立つと、どこかで見られているように思う」と、いまだ薄れない師匠への尊敬を口にした。なお、同書特製ケースのカバーは藤波が選んだもの。「この猪木さんの目の鋭さに僕は何度もやられました。試合中のときも、この目でね、動けなかったですよ」と語った。

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